1816年の江戸府内測量を最後に、全国の測量を終えた伊能忠敬は、これまでの測量結果を総合して『大日本沿海輿地全図』の作成にとりかかりました。そして、『伊能図』とも呼ばれるこの地図は、1821年にようやく完成します。その驚くべき正確さは、後世にさまざまな影響をもたらしました。
『大日本沿海輿地全図』の完成
最後の測量を終えた伊能忠敬は、『大日本沿海輿地全図』の作成を始めますが、1818年に亡くなりました。
忠敬の死から3年後、高橋景保(至時の子)の指導のもとで、久保木清淵や門弟たちは『大日本沿海輿地全図』を完成させました。
忠敬は第3次測量後、緯度1度を28里2分と算出しましたが、これは、のちに高橋至時が訳した『ラランデ暦書』の数字と同じだったといいます。このエピソードのとおり、『伊能図』はとくに緯度の点で正確です。
- 『大日本沿海輿地全図』。中図のうちの一枚で、中部地方を示したもの。
- 『大日本沿海輿地全図』。小図のうちの一枚で、西日本を示したもの。
緯度・傾度のほかに、島などの目標物からの方位線がみえる。
なぜ地図がつくられたのか
忠敬が活躍した時期は、ロシア使節ラックスマンの来航をはじめ、鎖国がゆらぎはじめた時期でした。そこから沿岸警備の必要性で、地図づくりが進められたといわれます。
しかし、江戸幕府に提出された『大日本沿海輿地全図』が、その後どう利用されたのかという記録はありません。そのため、徳川家が私的な理由から地図を製作したという説もあります。
また、忠敬自身もいろいろな動機があったようで、記録には「緯度1度を求めるため」、「よい地図をつくりたい」、「人の目を覚ますようなことをしたい」とあります。
- 『忠敬先生日記』。10回におよぶ測量の様子を記したもので、全部で28冊ある。
各地の大名からの贈り物なども記され、筆まめな忠敬の性格がよく表れている。
後世への影響
忠敬没後10年目の1828年、シーボルト事件が起こります。シーボルトは『伊能図』を国外に持ち出そうとして発覚、国外追放になりました。没収前にとった地図の写しをもとに、彼は帰国後、ヨーロッパに初めて正しい日本地図を紹介しました。
また、幕末には、イギリスの測量艦隊に『伊能図』が渡され、日本近海の海図が大改訂されています。
さらに明治時代初期には、『伊能図』をもとにした日本地図が次々につくられました。部分的には昭和の初めまでこの地図は使われ、実に100年以上の間、『伊能図』は生きていたのです。
- 伊能忠敬記念館。千葉県佐原市にある。1998年 5月にそれまでの記念館に代わって新しくオープンした。
写真提供: 伊能忠敬記念館・江戸東京博物館