緯度1度の長さをもとめるために、苦心する伊能忠敬。そんな忠敬に対し、師の高橋至時は蝦夷地測量の計画を打ち明けます。そして1800年、忠敬は蝦夷地測量の旅に出発します。ときに忠敬55歳。以後、17年間にも及ぶ全国測量の始まりです。いったいどのような方法で、忠敬たちは測量を行ったのでしょうか。
高橋至時のアドバイス
伊能忠敬が緯度 1度をめぐって、師の高橋至時のところに相談に行くと、至時は「そんなに小さな緯度の差や距離から子午線一度の長さを計算したのでは、信用のおける数値を得ることは無理だ。もうしばらく待ちなさい。」といいました。
至時はこのとき、蝦夷地(北海道)測量の計画を考え、忠敬にその実務をやらせようとしたのです。
- 杖先羅針。傾斜地などで杖が傾いたりしても、常に水平を保つようにつくられている。
全国測量の旅へ
忠敬は至時の計画に喜び、1800年に蝦夷地測量の旅を行いました。以後、1801年、1802年、1803年、1805~1806年、1808~1809年、1809~1811年、1811~1814年、1815~1816年と 合計9回の測量行が実施されました。
合計旅行距離(陸路のみ)は 4万kmを超え、ほぼ地球を一周したことになります。
- 半円方位盤。忠敬が考案したもので、杖先羅針より正確な測定ができる。主として遠方の目標物の方角測定に使われた。
測量の方法
忠敬たちは、距離の測定には、麻の縄(間縄)や竹などの棹(間棹)、鉄の鎖などを主に用いました。
方角の測定には、主として杖の先に羅針盤をとりつけたものが使われました。また、測定する直線の方角だけでなく、遠近に目標物を設定し、その方角も記録させました。これは距離の読み違いなどがあったときに、補正するための工夫でした。
さまざまな工夫をして出た測量結果を、忠敬は夜間の天体観測でさらに補正しました。
- 携帯用磁石。忠敬は磁石の使用に十分気を配り、刀は竹光を差していた。
大規模な測量事業
忠敬たちの測量は、第5次以降は幕府直轄の事業となります。それにともない測量隊の人員も増え、測量の補助や荷持運びなどにはさらに多くの人員が必要でした。
それらは現地で調達されました。愛知県豊田市の鈴村家に残る測量隊を迎えたときの記録には「人足三百九人」と書かれています。
- 御用旗。忠敬の測量が、幕府の事業であることを示す。文字を書いたのは久保木清淵。
写真提供: 伊能忠敬記念館・江戸東京博物館