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第二の人生への挑戦

隠居を決意し、暦学の研究に本格的に取り組もうとする伊能忠敬。1795年に江戸深川に邸宅を構える前後には、忠敬の運命を動かすような出来事が次々と起こります。そのような中で、忠敬はのちの日本地図作製に大きな影響を与えた人々との交流を深めます。50歳からの新しい第2の人生への挑戦。そのスタートです。

関西旅行

江戸に出る2年前の1793年、忠敬は伊勢参りの旅に出かけ、数か所で測量や観測を行っています。
また、佐原村の近くの村で名主をつとめていた久保木清淵も、この旅に参加しています。彼はのちに忠敬の日本地図作製にも参加しました。

当時の暦学と改暦問題

当時の暦学では、大坂の麻田剛立とその一門が有名でした。麻田一門は実証的な学風で知られ、西洋暦学の理論も積極的に取り入れていました。
このころ江戸幕府では、暦を新しくつくる必要に迫られて、民間の研究者である麻田剛立を呼び寄せようとしました。しかし麻田は高齢を理由に断り、代わりに門弟の高橋至時らを幕府に推薦しました。

師との出会い

こうして、当代一流の暦学者が江戸にやってきたのは1795年のことです。忠敬はこの機会を逃さず、19歳も年下の高橋至時の門下に、すぐに入りました。
忠敬は西洋暦学の理論に熱心に取り組み、天体観測にも精力的にはげみました。

「推歩」先生の疑問

当時、緯度1度の長さはいくらか、というのが暦学上の大問題でした。至時に「推歩(=計算)」先生とあだ名をつけられた忠敬は、自宅と暦局の緯度差と距離から、その値を求めようとしました。
緯度については自信がありましたが、問題は距離です。江戸の町中で棹や縄を使って正確な測量を行うことは不可能でした。仕方なく、忠敬は何度も繰り返して歩測を試みます。
しかし忠敬は、自分の測定結果に自信がもてず、師の至時に相談に行くことにします。これが忠敬の生涯を動かす、大きな転換点となります。

写真提供: 伊能忠敬記念館・江戸東京博物館

量程車

量程車。車輪の回転数から距離を測る道具。凹凸があるところでは誤差が生じ、あまり実用的ではなかった。高橋至時の考案といわれる。

暦象考成

『暦象考成』後編。当時、わが国では最新の西洋暦学の書。ケプラーの楕円軌道説にもとづく。間重富が1793年ごろ購入。

 ラランデ暦書管見

『ラランデ暦書管見』。高橋至時が1803年に『ラランデ暦書』を抄訳したもの。『ラランデ暦書』はフランスの天文学者・ラランデの書のオランダ訳。

 忠敬の墓 至時の墓

左が伊能忠敬の、右が高橋至時の墓。どちらも東京都台東区の源空寺にある。忠敬の遺言により、師弟は並ぶようにして眠っている。

 

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