忠敬誕生
1745年に上総国山辺郡小関村(千葉県九十九里町)に生まれた伊能忠敬。彼は学問、とくに算術好きの少年に育ちました。その背景には、生家が裕福な商家であること、つまり自然とそろばん=算術と親しむ機会があったのだろうと考えられます。
- 武士姿の伊能忠敬画像。忠敬は村政の功績などで、1783年に苗字帯刀を許された。
佐原の伊能家に入る
忠敬は17歳のときに、佐原村の名門・伊能家に婿入りしました。伊能家は、名主を務める名家で、資産家でもありましたが、忠敬が婿入りするころには家運が傾き始めていたといいます。
忠敬は薪や炭などの新しい事業を始めたり、米の売買も地元だけではなく関西方面にまで手を伸ばしたりして、家業を盛んにしました。
- 佐原にある伊能忠敬の旧宅。忠敬自身の設計で、母屋は1793年に建てられた。
村のリーダーとして
当時の佐原村は水害が多く、忠敬は堤防修復工事の指揮を命じられたこともあります。これは忠敬に測量の心得があったからだと考えられます。
また、天明の飢饉のときに、忠敬は苦しんでいる人々にお金を貸したり、米を安く売ったりしました。そのため、佐原村民には餓死者が一人も出なかったといわれています。
- 小象限儀。象限儀は天体観測の道具だが、小型のものは主に土地の傾斜を計測するために使われた。
隠居を決意
1790年、忠敬は45歳のときに隠居を決意します。そして翌年には 3条の家訓を残して長男に与えています。忠敬はしだいに学問、とくに暦学に対する関心を高めていたのです。
忠敬が家訓を与えて3年後、ついに隠居の許可がおります。そして1795年、忠敬は江戸に移り、新たな人生を進むことになります。忠敬50歳のことでした。
- 伊能家の家訓。わずか3条で、「正直」「寛裕」などの文字がみえる。
写真提供: 伊能忠敬記念館・江戸東京博物館